人の直感に 訴えかけるためには
ロジックを超える感性が欠かせない。
米谷ひろし/君塚賢
YONEYA Hiroshi / KIMIZUKA Ken
TONERICO:INC.

米谷中学生くらいの頃にDCブランドブームが起きて、ヨウジヤマモトさんが僕の憧れでした。だからファッションデザイナーという職業があることは認識していましたが、美大の存在は知らないまま、高校ではバスケばかりしていて。
進路を考える時期になり、バスケで大学に行くほどではないし、自分なりに戦えるものって何だろうと考えたとき、デザインの世界ならほとんどの人がゼロスタートじゃないかと思ったんです。それを高校の先生に相談したら美大を勧めてくれて。
米谷いえ、そこは空間デザインでしたね。美大について調べたりしているうちに、自分が好きなファッションはそのお店の空間も含めて好きなんだと気付いて、インテリアやプロダクトを学べるムサビの工デ(工芸工業デザイン学科)に入りました。

これは後々の話ですが、僕が好きなヨウジヤマモトさんの空間デザインをしていたのがデザイナーの内田繁さんで、僕はムサビを卒業後、内田さんの事務所(スタジオ80)で働き始めます。そこで君塚と出会うというふうに、縁がつながっていくんです。
君塚僕は小学校の美術の先生に「美大に行ったらいいよ」と言われるほど、小さい頃から図画工作が好きでした。でもそんなことを忘れるくらい高校では部活に明け暮れ、大学進学となって美大のことを思い出したんです。
手を動かすことが好きなので彫刻学科も考えましたが、立体系のデザインも面白そうだからムサビの工デと空デ(空間演出デザイン学科)で受かったところに入ろうという感じで、空デに進みました。

君塚3年生に上がるときに建築学科に編入しました。きっかけは、さっき米谷から話があったスタジオ80でアルバイトを始めたことです。模型づくりの手伝いをしながら空間デザインの仕事を目の当たりにして、「これしかない。ここで働きたい!」と思いました。それでインテリアや空間を仕事にするなら、その “側” をつくる建築を学生のうちに勉強しておこうと考えたんです。
いよいよ就職というときには事務所で面接を受けたのですが、ポートフォリオを見せようとしたら「そういうのはいいから」って(笑)。模型の仕上げが迫っていたので、卒業式も出ないまま入社しましたね。
米谷スタジオ80は内田さんのお墨付きをもらって独立するという雰囲気があって、僕は10年経ったら独立しようと思っていましたが、「米谷ひろし設計事務所」みたいに1人で独立するイメージがわかなかったんですよね。
バスケだって1人では試合に勝てない。自分の調子が悪いときは誰かにシュートを決めてもらったり、ディフェンスをフォローしてもらいます。そのときの自分の出来不出来に左右されずに仕事の精度や成果を高めるためには、誰かと一緒のほうがいいし、やっぱり楽しいだろうと感じていました。
ただ、誰かとやるにしても序列が必要で、それがないと「これお願い」「わかりました!」というスピート感が生まれないし、同輩みたいな間柄ではぶつかることも出てくるだろうと。だから後輩の君塚と一緒ならかたちになると思ったんです。



幅広いジャンルを手がけ、東京・京橋の「ARTIZON MUSEUM」のような大規模なパブリックスペースのインテリアデザインも担当している
Photos by Satoshi Asakawa
君塚「一緒にやろうぜ」と声をかけてもらったときは本当にうれしかったですね。僕は事務所に入って1年ほどで事情があって退社して、個人で仕事をしていました。
成城風月堂さんという和洋菓子店が最初のクライアントになってくれて、その仕事で食いつなぎながら、スタジオ80の先輩たちが夜な夜な飲みながらデザイン談議しているところに参加させてもらっていたんです。
実績もないし、先輩たちと一緒に仕事をしたいという思いだけで仕事を続けていたので。だから「諦めなければ何とかなる」と思いましたね。
米谷『MEMENTO』はトネリコにとって出発点みたいなもので、いまだに思い返しますね。
事務所を立ち上げてからミラノサローネのサテリテに出展していて、1、2年目は家具をつくっていましたがなかなか人の目を引けなかった。だから3年目は、家具の用途や機能にとらわれず、そういうものを超越して人の直感に訴えかけるものをつくるべきだと開き直って、数字をモチーフに彫刻とも言えるような空間作品を展示しました。
するとたくさんの人が足を止めて見てくれて、「面白いね、きれいだね」と率直な反応をくれたんです。


Photos by Nacása & Partners Inc.
君塚人の心に残るようなものをつくることの大切さを『MEMENTO』で実感しました。空間の仕事は用途が決まっているので「こういうお店をつくってほしい」とお題があるけれど、その通りにデザインしても面白い空間にはならない。
クライアントの要望は前提として噛み締めながら、プラスアルファの魅力をつくることが僕たちの仕事で、『MEMENTO』のようなことができているのかという自問自答は今も変わらず続いていますね。
米谷僕らの過去の仕事を見てくださって「こういう空間がいいです」と言われることがありますが、それに引っ張られずに、やっぱり過去に類がないものをつくるべきなんですよね。今の時代は生成AIに「誰々の代表作をかけ合わせたらどんなものができる?」と聞けばパッとヴィジュアライズしてくれるけれど、AIが思いつかないようなオリジナルをつくるのがクリエイティブの根本ですから。
でも美大に入った頃は、みんなそういう思いを持っていたはずなんですよ。デッサンにしても、どうすれば自分らしさが出るのかとこだわっていた人だけが、似たような作業の果てに掴める新しさがある。学生時代からそれを感じることができていれば、社会に出てからも自分らしい仕事ができると思います。美大に通っているだけで誰もがデザイナーになれるわけじゃないですからね。
君塚リアルに勝るものってないと思うんですよね。僕らが手がけた空間も、写真で見ると「研ぎ澄まされた」「シンプル」といったクールな印象のワードが並ぶけれど、実際に足を運んでもらうと「すごく温かい感じがした」と逆の感想をいただくことが多くて。
そういう意味でも、多感な時期に本物を見ることは大事なんじゃないかと思います。実際にその場所に行かないと感じられない匂いや温度ってありますから。


Photos by Nacása & Partners Inc.
米谷この世界は建築に寄れば寄るほど工学部系出身の人がたくさんいますが、僕は美大に行って良かったなとつくづく思うんです。
人の琴線に触れたり記憶に残るようなものをつくるためには、筋道立てて結論を導き出すロジカルな思考を超えるような、直感や感性が大切になってくる。だから美大で学んだ経験がいまだに生きていて。
アートを自分なりに感じたり理解できたりするのも、美大生だったことが大きいですね。僕は仕事で行き詰まったら展覧会に行ったり作品集を見たり、論文を読んだりするんです。このアーティストはどういう考えでこれをつくったんだろう、と。それが仕事にフィードバックされると、理詰めの空間設計ではないものが立ち上がってくることがあるんですよね。


Photos by Satoshi Asakawa
君塚クリエイティブな仕事って自分が経験してきたことが無駄にならないし、全然違ったところからインスパイアされることが多くて。僕はこの仕事をするようになってから、 “間” が日本人のDNAには刷り込まれていると気付きました。それは、僕の祖母と母が書家で、僕自身も子どもの頃から筆を持たされていたからだと思います。
1つの字の中には大きな “間” と小さな “間” があることや、書には白と黒の “間” があると教えられていた。その感覚は空間にもグラフィックにも共通するものがあるんですよね。
だから興味を1つに絞る必要はなくて、興味があることは何でもやってしまえばいい。最短を目指さずにジグザグに行ってほしいですね。
米谷それで言えば、ムサビって共通絵画や共通彫塑の授業がありますよね。あの授業はいまだに覚えています。油絵の課題で背景をピンクに塗っていたら、絵画の先生から「そうか、ピンクに見えるのか」とボソっと言われて。認めてくれるわけでもないし、否定もされない。「これが美大の空気……?」と思いました(笑)。
せっかくデザイン科に入ったから、早く図面を書いたり模型をつくったりしたいと思いながら授業を受けていたけれど、ああいう時間が良かったなと今は思えるんですよね。

米谷ひろし
YONEYA Hiroshi
工芸工業デザイン学科

君塚賢
KIMIZUKA Ken
建築学科
TONERICO:INC.
米谷ひろし、君塚賢、増子由美の3人により2002年に結成されたデザイン事務所。建築、インテリアから家具、プロダクトに至るまで多岐にわたり活動。代表作に、ARTIZON MUSEUM、銀座 蔦屋書店、LOFT店舗開発、Hyundai Customer Experience Center一連の施設、青山見本帖、CondeHouse「KYOBASHI」「JINGU」など。ミラノサローネ サテリテ デザインリポートアワード最優秀賞、JCDデザイン賞金賞、JID賞インテリアスペース賞、グッドデザイン賞など受賞歴多数。
米谷ひろし/1968年大阪府生まれ。1992年武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科卒業。卒業後はスタジオ80に在籍し、内田繁に師事。2002年TONERICO: INC.を設立。同代表。
君塚賢/1973年神奈川県生まれ。1998年武蔵野美術大学建築学科卒業。卒業後はスタジオ80に在籍し、内田繁に師事。フリーのデザイナーを経て、2002年にTONERICO: INC.を設立。同取締役。





















