見つめつづける。
聞きつづける。
感じつづける。
学びつづける。
問いつづける。
迷いつづける。
試しつづける。
挑みつづける。
伝えつづける。
つくりつづける。
美はつづく。
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「選択と決定」、その先に芽生える
新たな局面を待ちながら

諏訪敦

SUWA Atsushi

画家

『Untitled』2007年(部分) 撮影協力:WHAT MUSEUM

高校生の頃に美術の道に進もうと思ったそうですね。きっかけは何でしょうか?

それまで地域の進学校で北大への受験準備をしていたはずだったのに、急な方向転換でした。その理由は、狭い街から離れたいと切実に感じていたことと、そして「講義科目をこのまま受け続けなければならないのか」と思い詰めていたためでした。

美術系大学の受験情報も圧倒的に不足したままの挑戦でしたが、衝動が不安を上回っていたのだと思います。後戻りできいないところに自分を投げ込んでみたかったのでしょう。

それでムサビの短期大学美術科(現在は閉校)に入学されると。

受験の準備は合計4週間くらいでしたから、道具の使い方もわからないまま、唯一受かったのが短大美術科でした。あの頃の「タンビ」は藝大受験に失敗した、浪人生のたまり場みたいなところで、私のような現役生はむしろ存在感が薄かった。年上ばかりの環境の中で、絵の描き方を謙虚に学んでいけたのは幸運でした。

現在のムサビの教員は、いつ出校しているのかが明確で指導も手厚いけれど、当時の教員たちは遠い存在に見えていました。だからむしろ、先輩や助手さんたちから学ぶことが多かったですね。たとえば当時、先輩だった山本昌男さん(国際的写真家)の制作や、水上泰財さん(現 油絵学科教授)の修了制作を見て、「学生でもここまでやれるのか」と大変触発されたことを覚えています。

WHAT MUSEUMで開催された個展「きみはうつくしい」の会場にて
WHAT MUSEUMで開催された個展「きみはうつくしい」の会場にて

思い返すと、タンビのときが一番楽しかったですね。正しいゴール設定が存在しない世界に日本中から飛び込んできた人たちが、同じ空間に集められていて、急に似たような境遇の仲間が幾人もできたわけですから。まるで仔犬が噛み合うように無茶を繰り返す毎日が、人付き合いが苦手だった私にとっては良かったのだと思います。

その後、4年制の油絵学科に編入し、大学院に進まれます。いつ頃から作家活動を意識されていましたか。

具体的なイメージを掴めて能動的に活動を始めたのは大学院に入ってからです。また、時代はずれているのですが、中村信夫さんの『少年アート』という本の影響もありました。70年代にロンドンのRCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)に留学した中村さんの体験記で、目を開かされる思いでした。それを読んで、自分がやっていることは違うのかもしれないと思ってみたり……。

だからといって、絵画をあっさりと放棄したかというと、それは違うんですけどね。一時期は絵画以外の表現を試してみようかと考えたこともありました。東京藝術大学の卒業制作展でさえ、タブローの提出が減っていた時代でしたから。

「絵を描きたくて美大に入ったのに、どうして絵を描くと見下されるんだ」と思いながら、状況に一矢報いるには、描くほかなかった。世間ではやり尽くされたと見做されている絵画だからこそ、このままの自分でジャンル性を突破し、新しい局面をつくり出そうという気持ちでした。

『目の中の火事』2020年油彩、白亜地パネル|27.3×45.5cmPhoto by Keizo KIOKU
『目の中の火事』2020年
油彩、白亜地パネル27.3 × 45.5 cm
Photo by Keizo KIOKU

大学院を修了後、鹿島建設に就職されますが、その理由は?

理由の1つは、親にこれ以上経済的に負担をかけられないと、思い詰めていたからです。そして「世間」を知らないまま大人になってしまうことが不安で。満員電車に揺られ、誰かに雇われて働くような、多くの人が経験することもしてこなかった。そんな人がアーティスト然として「人間」を描いたとして、誰が相手にしてくれるのだろう、と。

会社では設計エンジニアリング総事業本部のビジュアル・インフォメーションセンターに配属されました。建築設計の経験がないのにどうして採用されたのかは謎ですが、ムサビで獲得したベーシックな造形力を買われたのかもしれません。仕事としては完成予想図や設計案のバリエーションづくりに参加し、プレゼン資料の制作も担っていました。

会社員時代には、文化庁芸術家派遣在外研修員制度(現在の新進芸術家海外研修制度)に推挙されて、2年間も休職し、スペインに滞在した時期もあります。退職する頃には3DCGのウォークスルーアニメーションを制作していて、仕事そのものは絵画の技術の延長線上のようで面白かったけれど、目を悪くしてしまい2000年に退職しました。

『father』1996年油彩、テンペラ、白亜地パネル|122.6×200cm佐藤美術館所蔵
『father』1996年
油彩、テンペラ、白亜地パネル122.6 × 200 cm
佐藤美術館所蔵

諏訪さんは制作の前提として、時間をかけて取材を重ねることが知られています。そのスタイルはどのように確立されていったのでしょう?

いわゆる写実絵画という意味では「目の前にある現実を尊重して描く」、それだけで十分なのかもしれません。でも、何か手応えがない。小説を書くにしても映画を撮るにしても、ロケハンをしたり関連する文献を読み込んだり、どんな表現においても取材は不可欠ですよね。画家だけがそれを免除されることに違和感がありました。

借り物ではないアプローチを考える上で大きな契機となったのが、舞踏家の大野一雄さんとのプロジェクトです。取材を始めたのは僕がまだ会社員の頃で、大野さんは95歳を過ぎていました。大野一雄さんは舞踏のオリジネーターの一人として、世界中で尊敬されてきた方ですから、著書がたくさん出ていて、履歴情報も開示されていました。

だからリサーチの初心者としては最適で。大野一雄さんの生家を訪ねることから始めて、彼が当時見ていたと思しき風景を、推測も交えて具現化したり、個人史について考えを巡らせる時間もたくさんつくれました。実際に1年くらいそのようなことを続け、それからやっとご本人に臨んだとき、ものすごく手応えがあった。単純に楽しかったし、ある意味での資格を得て大野一雄さんに辿り着けたという感動もありました。

絵を描くためのリサーチはそこから本格化するわけですね。

現代美術の世界ではアーティストが調査を行い、それをもとに作品をつくるリサーチ・ベースの作品制作が1つの潮流になってきて、私の関心領域とリンクしてきたように感じます。私が調査やフィールドワークを始めたのは、学生時代に出会った佐藤和孝さんという戦争報道が専門のジャーナリストの存在が影響しています。

かつての戦争報道は今と違い、取材から発信までのタイムラグが大きい時代が長く続いていました。しかし90年代に撮影機器の小型化やパソコンの普及によって、ジャーナリストが現地から即、取材のソースをラップトップで編集まで完了させて、映像をメディアに提供することが可能になりました。つまり、ジャーナリスト側がコンテンツの内容に一定の権限を持ち得るという画期的な転換点があったわけです。

佐藤さんはビデオジャーナリストとして、そうした報道にエポックをもたらした重要な人物の一人で、そんな彼がボスニアの内戦を取材した「サラエボの冬――戦火の群像を記録する」(1994年、NHK-BSで放送)というドキュメンタリー番組が素晴らしくて、大変な衝撃を受けました。番組内容もさることながら、困難な取材を完遂する熱気に当てられたのだと思います。

ジャーナリストと取材対象者の関係性を画家とモデルに置き換えて、あれに匹敵する濃密な経験を描くことはできないだろうか。そんな自問が大野一雄さんのプロジェクトにつながっていったと思います。私のアプローチや思考は、絵を描き続けている中でロールモデルになるような人と出会いに、幾度も恵まれてきたことから形成されてきたのだと思います。

『依代』2016-17年鉛筆、油彩、アクリル、洋紙、パネル|86×196cm個人蔵/-/Photo by Keizo KIOKU取材プロセスを重視したスタイルが一般層に知られるきっかけとなった、満蒙開拓団として旧満州国に入植した諏訪さんの祖父母一家の足跡を、現地取材も重ねて描いたシリーズの一作
『依代』2016-17年
鉛筆、油彩、アクリル、洋紙、パネル86 × 196 cm
個人蔵 Photo by Keizo KIOKU
取材プロセスを重視したスタイルが一般層に知られるきっかけとなった、満蒙開拓団として旧満州国に入植した諏訪さんの祖父母一家の足跡を、現地取材も重ねて描いたシリーズの一作

2011年に現代美術を扱う成山画廊にギャラリーを移されます。そうした環境の変化は制作にどんな影響を与えるのでしょう?

国内の美術業界の構造に関わる動機ですが、駆け出しの私は旧来のいわゆる「画壇」の枠組みの中で活動していました。幸い比較的早くから売れるようになってくれてはいたけれど、一方でそこにいては「鑑賞絵画」としてどんなに需要があっても、同時代の表現として批評の対象にならないことは自明でした。

そうした理由から、属性と活動領域を変えることにし、2011年以降、現在の所属ギャラリーと仕事を始めることにしたのですが、このような行動はすでに確保できていたマーケットを放棄して、違う領域に移りゼロからリスタートすることに等しいことです。業界の慣習としてもあり得なかったので、相当な覚悟が必要でした。

環境を変えること――地方から東京に出たことも、2年間スペインに居住したこともそうだけれど、自分の置かれた場所を再検討することは、とても重要なことだと思うのです。

『mother / 23 DEC 2024 死者はいつも似ている』2024年アクリル、油彩、水彩、鉛筆、コラージュ、洋紙、新聞紙、パネル|40.7×91cmPhoto by Keizo KIOKU
『mother / 23 DEC 2024 死者はいつも似ている』2024年
アクリル、油彩、水彩、鉛筆、コラージュ、洋紙、新聞紙、パネル40.7 × 91 cm
Photo by Keizo KIOKU

個展「きみはうつくしい」(WHAT MUSEUMで2025年9月から2026年3月まで開催)では、立体の作品を手がけられるなど、新たな表現に取り組まれていました。今後はどんなことに取り組もうと?

今、自分が取り組んでいきたいと思っているのは、1人の画家の中に2つの世界観を並走させるような感覚です。非常に解像度の高い、「ハイパーリアルな画家」という従来の在り方とは別に、『汀にて』のシリーズのようにペインタリーで、即興的で工芸的な意味で完成度を求めないスタイルも、1人の中に別人格を共生させるかのように、同時に活動させてみたいというモチベーションが高まっています。

個展「きみはうつくしい」で発表された新作『汀にて』(2025年)。会場では、自身のアトリエで見いだした材料でブリコラージュした人型をモチーフとした大型の259×162cmのペインティング(左)とともに、制作プロセスのドローイングや人型(右)も併せて展示されたPhotos by Keizo KIOKU
個展「きみはうつくしい」で発表された新作『汀にて』(2025年)。会場では、自身のアトリエで見いだした材料でブリコラージュした人型をモチーフとした大型の259 × 162 cmのペインティング(左)とともに、制作プロセスのドローイングや人型(右)も併せて展示された
Photos by Keizo KIOKU

そうやって自分が変わると、新しい出会いも訪れる。実際に個展「きみはうつくしい」では、小説家の藤野可織さんが僕のアトリエに度々来てくださって、その体験をもとに短編小説を書き下ろしてくれました。先日は美に対する人間の感受性と脳の働きを科学的に探求する、神経美学という学際的な研究分野の先駆者、石津智大さんとのコラボレーションも企画できました。この年齢になって、異分野の研究者たちと濃密に交流できる機会が増えたのは、人生のギフトだと思っています。

『肉叢』2025年油彩、白亜地パネル|45.5×53cm
『肉叢』2025年
油彩、白亜地パネル45.5 × 53 cm

最後に、これから美大を目指そうしている方にメッセージをいただけますか。

保護者の方々や周囲に理解を得て、美大に進むという大きな決断を果たしたみなさんは、すでに制作の渦中に身を投じているといえるのかもしれません。私も含めてムサビに飛び込んで良かったと、多くの卒業生が思えているのは、「ここで何かが起こせるかもしれない」と同じように考えている人と出会い、交流することで得た経験に、それぞれに固有の価値を感じられたからだと思います。

例えば絵画は、材料がもたらす偶然性が関与するとはいえ、どの色彩、ストローク、かたちもすべて、自分で決定したものの集積です。その画面には描いた人の意識と意図が張り巡らされていて、描画層は思考の集積にほかなりません。思えば現代の仕事の中で、徹底的に自分で責任を取り切れる仕事は、むしろ珍しいといえるかもしれません。みなさんが描いていく絵画にはその時点の自分が、嘘偽りなく反映されているに違いありません。

アートはそれまで存在しなかった価値を、それぞれ専門の手法を通し、世の中へ示していく行為です。そこには無数に自ら下さなければならなかった「選択と決定」が関与しています。「選択と決定」が許されている時代と状況の貴重さを感じながら、みなさんが見せてくれる新たな局面に期待せずにはおられません。

諏訪敦

諏訪敦

SUWA Atsushi

大学院美術専攻油絵コース

画家

1967年北海道生まれ。1990年武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻油絵コース修了。1994年より文化庁派遣芸術家在外研修員として2年間マドリードに滞在。1995年バルセロ財団主催第5回国際絵画コンクール(マジョルカ)にて大賞を受賞。帰国後、舞踏家の大野一雄・慶人親子を長期間にわたり取材したシリーズ作品を発表。これを契機に絵画の原点回帰としての写実表現から、取材プロセスを重視したスタイルへの展開を見せている。2011年NHK「日曜美術館 記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家~」での単独特集、2016年には歴史に言及した、ETV特集「忘れられた人々の肖像 “画家 諏訪敦 満州難民を描く”」が放送され、ナラティヴなアプローチの徹底性が一般層にも知られることとなった。主な個展に「どうせなにもみえない」(諏訪市美術館、2011年)、「諏訪敦 眼窩裏の火事」(府中市美術館、2022-23年)、「諏訪敦きみはうつくしい」(WHAT MUSEUM、2025-26年)などがある。

油絵学科油絵専攻

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